その日はめずらしく朝食をとった。いつもなら朝は食欲がないので朝食をとらない。しかしその日は気合を入れるためにも、無理して食べた。特別に何かがあった訳ではなかったが、もうそろそろ夏バテ対策をしておかないと夏を越せないと思い、その一環として朝食をとることにしたのだった。
最寄の地下鉄の駅に向かうバスの中で、胸焼けがしていた。普段はコップ一杯の水が牛乳しかとらないのに、今朝はそれプラス8枚切り食パンが2枚詰め込まれている。胃の許容量をゆうに越えているので、胸焼けをしない訳がない。重い胃の辺りを手で押さえながら「こんな時に気分が悪くなって倒れたりなんかしたら、大変だよなぁ。」などと、他人事として考えていた。数分後、その考えが自分の身に降りかかることなど、胸焼けがひどくならないための昼食のメニューで頭がいっぱいだったあたしに予想できたであろうか。
朝のラッシュのバスの中で、胸焼けがだんだんひどくなり、気分が悪くなり始めていることに気がついた。二酸化炭素で充満されている、ある意味密室のバスの中は酸素が薄いに違いない。最寄の地下鉄まで約15分。そのくらいはもつだろうと思っていた。だが世の中はそんなに甘くはなかった。どんどん気分が悪くなり、つり革につかまった状態で立っているのが難しくなっていった。少し前のめりの体勢をとりながら、♪がんばれ、がんばれ、あ・た・しッ♪と自分に応援歌を捧げていた。少しずつ、周りの音が聞こえにくくなってきた。ま、まさか、そんなはずは…。悪い考えを振り払いながら、必死にふんばっていた。次に周りの景色が色を失って白くなっていき、視野が狭くなっていった。この感覚、忘れもしない小学校1年生当時、あれは確か6月4日。「虫歯予防週間」か何かで、炎天下の運動場で体操体系に広がり、右手に歯ブラシを持ちつつ音楽に合わせながら「歯磨き体操」なるものを踊っていて貧血で倒れた時のプロセスとそっくりじゃないか。ってことは次は手足に力が入らなくなって倒れこんでしまうんだ。自分の意思とは全く関係なく、手足に力が入らなくなって倒れこんでしまうんだ。それだけは避けたい。小1の時は運動場で体操体系だったから倒れこむスペースは十分にあったけど、ここはラッシュのバスの中。こんなところで倒れこんだら通勤途中のみなさまに多大なる迷惑をかけてしまう。そんなことよりも今手に持ってるバスカードを落としちゃうじゃないか。混んでるんだから、拾うのが大変だ、ダメだ、ダメだ、ここで倒れちゃダメだぁ~…と思いながら、途切れ途切れになる意識を気力だけでつなぎとめていた。
ふと気づくと、手に持っていたはずのバスカードがない。辺りを見回すと、床に落ちていた。手から落ちた記憶はなかったのだが、拾おうとするのだが体が言うことをきかない。しばらく立ち尽くし他の乗客が全員降りてからゆっくりと拾い、清算の機械を通してバスを降りた。深呼吸をしたら少し気分がよくなった。びびったぁ、でも倒れないでよかったぁ、これなら仕事に行けるぞ、すごいぞあたしッ!いい気になりながら地下鉄に乗ったが、調子がよかったのも駅2つ分だけ。また気分が悪くなって3つ目の駅で電車を降り、ホームで座り込んでしまった。
「大丈夫ですか?立てますか?」と、誰かが声をかけてくれた。ケイン・コスギもしくはリッキー・マーティン並みの素敵ないい男…なんてドラマのようにはうまくいくはずもない。声をかけてくれたのは、その場にいるだけで周りを幸せにしてくれそうな笑顔を持つ、癒し系ふっくらおばちゃん。きっとご近所では「○○さんなら、何を言われても許せちゃいそうだわ。」なんて言われてるんだろうなぁ、なんて余計なことを考えながら「うーん、どうでしょう?」などと長嶋さん並みのコメントを返したら、駅員を呼ばれて医務室に連れていかれた。1時間ほど医務室のベッドで休ませてもらい、結局その日はうちに帰った。
夕方になり、母親に連れられて病院に行った。三十路女が母親に病院に連れて行かれるのもどうかなぁ、などと思いながらも、まぁ今回は病人(?)なんだから仕方ないか~と自分を納得させた。今朝自分の身に起こったことを病院の先生と看護士さんにに説明し、血液検査をした結果、脳性貧血だということが判明した。先生曰く、「のぼせたりして脳に血液が十分に送られなかったりすると起こる貧血ですね。そういう時は冷やせば治るので問題はありません。若い女性によく起こることなんですけどねぇ…。」。若い女性の部類に入らない三十路女で悪かったなぁッ!のど元までこみ上げる言葉を飲み込みながら、「はぁ、そうなんですかぁ…。」と病人らしく振舞ってみた。結局薬も何も出ず、次の日から普通どおりの生活に戻ったのであった。
貧血で倒れてゲットした情報。それは血液に関することでも病気に関することでもなく、名古屋市交通局の従業員の朝のお勤めのひとつに、お米をとぐこととそうめんをゆでることがあるということだった。「お昼のお米、何合炊きますぅ~?」「少なめでいいんじゃない?そうめんゆでればいいし。」医務室で休みながら、そんな会話を耳にしてしまった。なんでもお昼ご飯の準備だそうな…。
今回の教訓。「病人は病人らしくしよう。」気分が悪くて倒れこんだりしてるのに、自分の置かれてる状況や周りの人々を詳しく観察したり感想をまとめたりしていると、治るものも治りません。